「小泉今日子」さんの歌で『あなたに会えてよかった』という作品があります
小泉さん自身の作詞で、曲も大変すばらしいものです
ある結婚式のノリで急遽リクエストされ、題名のイメージだけでこの曲を選んでしまった女性がいました
始まりの歌詞からいきなり強烈でした
”サヨナラさえ 上手に言えなかった”
ひきつる笑顔に、次の歌詞が追い打ちをかけます
”Ah あなたの愛を 信じられず…”
「時すでに遅し」で、気合で歌いきるしかないのでした
人のことを笑ってはいけません
この『青春の影』
題のイメージとラストの歌詞で、青春の一ページとして若い二人の「愛」の終わりを歌ったものと、なんとなく考えていました
この作品についての歌詞の意味を、多くの方が解説して頂いているのでしょうが、私にはいまだに???
とにかく、昭和を代表する名曲です
青春の影 1974年(昭和49年)
作詞・作曲:財津和夫 編曲:チューリップ
愛と影
問題の、ラスト2行の歌詞からご紹介します
今日から君は ただの女
今日から僕は ただの男
綺麗なメロディーに揺られながら、歌詞の本当の意味を追いながら何度も考えます
普通に考えると、「恋人同士の関係に終止符が打たれ、それぞれに別の道を歩んでいこう・・・」
みたいに捉えてしまうかもしれません
題名も『青春の影』、影が付きまといます
しかし、「財津和夫」さんは違いました
彼の大きな「愛」をテーマにしたこの作品の深さについて、私にはこの最後の歌詞の表現がいまだに理解できていません
そんな折、たまたま帰省している娘が、目の前で熱心にメイクをしていました
(先週帰って来た時に、アウトレットに連れていかれ買わされた服をちゃんと着ています)
(初めての春休みで、ちょこちょこ帰ってきます)
(私にも、短くも小さな春の訪れです)
そしてふと思いつきます
「男と女」ではなく、「父と娘」に置き換えてみると、理解できないまでも、少しはこの歌詞の世界観に近づけるのではないかと…
父と娘
架け橋としての二番の歌詞
愛を知ったために 涙がはこばれて
君のひとみを こぼれたとき
苦労知らず、恋愛知らず(たぶん)に育ったわが娘です
そんな彼女にも、これからはいろんなことが待ち受けているでしょう
つい先日、有ることで彼女の涙を見てしまいました(どうしてはこばれてきたのかは内緒です)
気の強い子だったので、小さいころからほとんど泣かない少女でした
恋のよろこびは 愛のきびしさへの
かけはしに すぎないと
歌詞の話に戻ります
特に2番からの言葉選びは、感性の塊でもって素敵な日本語が怒涛のようにあふれ返ります(ひらがな表記がこれまたいいのです)
人の成長は、よろこびやかなしみと共にはこばれてくるのでしょう(ちょっとひらがな表記をまねてみました)
ただ 風の中にたたずんで
君はやがて みつけていった・・・・ 君は女に なっていった
こんなにも自然に、そしてさわやかに見つけることはできないかもしれませんが、自分を信じてまっすぐに生きてほしい
ここに登場する彼女のように、素敵な女性になっていってほしい
そう願わずにはいられません
そして、この2番の歌詞が素敵な架け橋となって、最初にご紹介したラストのあの言葉へとつながるのでした
始まりの歌詞に戻ります
君の心へ続く 永い一本道は
いつも僕を 勇気づけた
気の強い娘は、気遣いもできる娘であると、父親の曇った眼にはうつります
ダメな面も含めて、私のことを一番理解してくれていると、信じて疑いません(勘違いかもしれないが…)
彼女への道は大切な絆であり、とても勇気づけられたことは間違いないのです
しかし、人生何が起こるか分かりません
横転事故(全損確定)という重大なやらかしに、ライン3行の報告で済ませたときのショックは衝撃的でしたが…
”事故った”
”怪我ないよ”
”車はやばいかもしれん”
以上終了です
信じていた、あの気遣いできる娘はどこへ行ったのでしょう?
本文に戻ります
今君を 迎えにゆこう (中略)
君を幸せにするそれこそが
これからの僕の 生きるしるし
「生きるしるし」
私には三人の子供がいます
私の生きるしるしです
ただ、とても残念なのは、娘を「迎えにゆく」のはこの私ではないという避けがたい事実です(すごく当たり前ですが…)
子供たちへと続くこの道に感謝いたします
これからもずっと、ただの父親とただの娘
それでいいような気がします
エンディングでの、ギターの素敵な演奏がいつまでも心に残ります
「あわてないで、ゆっくりと考えてごらん」
私にはそう聞こえてくるのでした
今回は、この作品の解説というにはほど遠い内容となりました
また、題名の「影」の部分にも触れることが出来ていません
願わくば数年後に理解できるよう、この作品をいつまでも聴き続けていきたいと思います。
了
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