作詞・作曲:鈴木一平
水鏡 昭和55年(1980年)
我が永遠の心の歌 なぜか「明鏡止水」の境地に誘われます
少しの邪念もなくまっさらな、なんの曇りもない気持ちになれたらどんなに幸せなことでしょう。
この歌には、そんな願いを叶えてくれそうな力がある気がするのです。
歌詞の内容は、切なくも悲しい
健気な女性の悟りと言えば、少し無慈悲な感じですが、「諦(あきら)めにも似た気持ち」がとつとつと言うか淡々と語られていくのです。
一生一度きりの別れならば いいものを
人は幾度となく 悲しみを 繰り返す
哀しくも切ない言葉が、最高のメロディーラインに乗って流れていきます。
主人公とどこか似ているひとひらの枯葉は、清流に押されるように右往左往し、やがて静かに流れ着きます。
作中には一切「水鏡」という言葉は使われていません。
この水に浮かんだ枯葉に目を向けている場面こそが「水鏡」という題名の所以(ゆえん)でしょうか。
凡人の私には気づくことの出来ない、もっと深い意味が込められているのかもしれません。
私だけの貴方(あなた)にはなってくれるはずもない・・・
サビの部分でそう訴えかけてくるのです。
私だけの貴方には なてくれるはずもない
そしてその後の
わすれてみるわ わすれてみよう
この表現・この言い回しには、尊敬の念に堪(た)えません。
実際には、強がる自分を叱り、涙も とめどなく溢(あふ)れてしまいます。
明鏡止水
【一点の曇りもない、よく映る鏡】=「名鏡」 彼女の人柄を表しているようです
【流れのない、澄んだ川面(かわも】=「止水」 理想とするの心であり、そこに浮かぶのが「枯葉」なのです
ちょっと強引なこじつけ かなぁと思わないでもありませんが…(ただ、どちらも鏡が使われているし…)
しかし…
頑張って欲しい…いや、もう充分頑張ってこられたのですから、これからを…これからの自分を生きて欲しいのです。
この思いに偽りはありません。
この唄を聞き終えると、そう願わずにはいられないのです。
私はといえば何故だか、わだかまりも消え、静かな心の状態に近づいていくようです。
なぜなら、
この詩の世界観である哀しみよりも、この曲に出会えた感動が、より強く心に残っているのだから・・・
『水鏡』のあなたへ
まだまだ心は揺れ動いたままでしょう。
でももう一度だけ
振り返ることなく 明日だけをみつめ… てください。
今すぐは難しいかと思いますが、一日も早く「澄み切った落ち着いた心境」になってほしいと、心よりお祈り申し上げます。
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P.S.
この曲には思い入れも強く、話が少し硬くなった気がします。
水に映る景色は、似たような形で現れますが、鏡とは若干異なるでしょう。
それゆえ、趣もあり日本人の心を引き付けるのかもしれません。
この微妙な不完全さは、今はやりのバーチャルリアリティーの世界と近いのかもしれません。
そこで話はガラリと変わり
VR(バーチャルリアリティー)
ネット映像等で最近よく見かける風景になって来ています。
その性能たるや、時代の最先端技術が込められているのでしょう。
でも私はというと、あのバカでかいゴーグルのようなものを見るたびに ≪平野ノラ≫ さんを思い出さずにはいられません。
「シモシモ」と言いながら(正直あまり聞いた覚えがないけれど)、声高で自慢げにしゃべってたであろう、当時のあの大きな携帯電話
ゴーグルをはめた姿を見るたびに、ちらついて離れません。
時は流れ何年かのち、芸人の方がギャグとして大きなゴーグルをはめた姿が笑いのタネとなり、今はやりの「あいみょん」とともに懐かしく思い出すのでしょか? (あいみょんさんは、末永く活躍されるでしょうが…)
たぶん、それは誰にも決してわからない未来
ただ一つわかっているのは、彼女が今現在どんな活動をしているのか何も知らず、「あいみょん」という はやりフレーズをノリで使う、愚かな私が現在ここに存在している事のみです。
「鈴木一平」&「あいみょん」
この二人、案外 遠くて近いのかもしれません。(そりゃ ないか)
了
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