作詞:武田鉄矢 作曲:山木康世
『母に捧げるバラード』は、ほとんどがセリフ部分ですが、あの短い曲が好きでした
昭和の代表曲『贈る言葉』(昭和54年)の大ヒットで、改めて見なおされた『思えば遠くへ来たもんだ』(映画化されました)
思えば遠くへ来たもんだ 1978年(昭和53年)
武田鉄矢:作詞
導入部は、”貨物列車が走り過ぎ、夕陽に消えて”いきます(この情景描写から書かれているところがいいんです)
レールに耳をあて
十四の頃の僕はいつも 冷たいレールに耳をあて
レールの響き聞きながら 遥(はる)かな旅路を夢見てた
今なら、炎上しそうな場面ですが、当時の田舎では、何でもない昭和の風景でした
遮断機もなく、田園風景の中に、まっすぐなレールがどこまでも続きます
この「レールに耳をあて」の歌詞がいいんです(旧国鉄のキャンペーンソングに不採用になったのも、この歌詞に問題があったとの説あり)(「いい日旅立ち」が採用)(相手が悪かった説が有力?)
結果的にどうだろうが、この歌詞は外せません
恋は一度
二十歳になったばかりの僕は 別れた女を責めながら
いっそ死のうと泣いていた 恋は一度と信じてた
この歌の中で、一番好きなところです
初めてこの曲を聴いたとき、なぜか涙ぐんだ記憶があります(この「責めながら」の歌詞が、よりズキンとこたえました)
女房子供もち
思えば遠くへ来たもんだ 今では女房子供もち
思えば遠くへ来たもんだ 振り向くたびに故郷は
思えば遠くへ来たもんだ 遠くなる様な気がします
故郷を出て、かなりの年月が過ぎ去ります
この曲には、故郷への郷愁以上に、「あたたかい何か」を感じて仕方ありません
「今では女房子供もち」という言葉の響きが好きです
自分には、「結婚は難しいんじゃないだろうか」思っていました
今でも、子供たちに「お父さん(今ではオヤジ)」と呼ばれていることを、ふと不思議に思うことがあります
「女房子供もち」
私なんかには、何となく面映(おもは)ゆい言葉なのです。
山木康世:作曲
先ほど見直していると、曲について触れていないのに気づき調べていたら、なんと・・・
あの名作『白い冬』を作曲された「ふきのとう」のお一人でした
名作と表現しましたが、この歌しか知りません
でも「白い冬」そして「思えば遠くへ来たもんだ」
傑作だと信じています。
秋の枯れ葉を、そして”線路のそばに咲くコスモスの花”を見つける頃には、ぜひこの二曲を聴いてみてください。
P.S.
海援隊と龍馬
武田鉄矢さんは、コア(筋金入り)な坂本龍馬ファンであることは有名です
幕末、土佐郷士(土佐藩士より身分は低い)坂本龍馬が、「海援隊」を組織します
「日本を今一度洗濯いたし申し候」と、純粋に日本の将来を憂い、純粋に行動します
歴史的な話は、分からないのでこの辺で…
かれこれ7~8年前の古い話ですが、「龍馬」と言えば土佐藩(高知県)
この高知県観光ポスターを思い出さずにはいられません
「リョーマの休日」《わざわざ行こう!志国高知へ》(確かに塩けんぴはさいこうにうまい)(わざわざ行きたいです)
このポスター、当時の県知事がレトロなバイクに袴(はかま)姿で乗っています(当然女性はヨコズワリです)
外国映画も詳しくない私ですが、何度も見てしまう映画が「ひまわり」(音楽も最高です)と
「ローマの休日」
ラストの記者会見で王女(オードリーヘップバーン)は少し間をおいて、≪ローム≫と答えます(私にはローマではなくロームに聞こえます)
このシーンがたまらなく好きなのです
そしてこのポスターも、大好きなのでした
映画続きでもう一つだけ
映画「思えば遠くへ来たもんだ」(主演:武田鉄矢 マドンナ役:あべ静江さんの全盛期の美しさが拝見できます)
田舎に赴任(ふにん)してきた新米教師役「鉄矢」さんは、生徒たち(特に山田隆夫)に初日からバカにされます
教室から走って逃げ出す「山田隆夫」さん、追いかける「鉄矢」さん
校庭には、一列に並んだ、たくさんのハードル
二人は、同じように飛び越え、つまづきながら、「逃げて」「追いかけて」・・・(感動?の忘れられないシーンです)
(苦い抹茶を飲んで「ねぇちゃん、アメリカンにして!」のシーンも嫌いじゃありません)
いい映画でした
いい時代でした
思えば、いい時代を過ごさせていただいたもんです。
了
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