雪が解け始め、春が少しづつ近づくと、案山子を見かけなくなった今でも、この曲は思い出されます
『案山子』がひとり 昭和52年(1977年)
作詞・作曲:さだまさし
都会に出た弟(もしくは妹)を、雪の中にぽつんと立つ案山子(かかし)になぞらえて、郷里に住む兄が気遣うメッセージを送る歌です(”ウィキペディア”より)
世の中、勘違いというのは多いもので、私はてっきり父親の言葉としてこの歌を聞いていたのですが…(約40年深く考えることなく、この歌を聞くたびにおやじの顔を…)(ついでに言うと、この歌の景色は「津和野」をイメージしていたことも知りました)
元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか
寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る
兄のいない私には、少し羨(うらや)ましい気がします
しかし、親不孝のわが身にとっては、この歌詞に触れるたびはに、心の痛みが先に訪れ、身に沁(し)みるのです
手紙が無理なら 電話でもいい 「金頼む」の一言でもいい
リアルに、無駄使いしては「お金ちょっと送って」とコレクトコール(料金先方払い)していた自分には、このあたりから「痛み」がかなり増していきます
・・・雪をかぶった 案山子がひとり
お前も都会の 雪景色の中で 丁度 あの案山子のように
寂しい思いを しては いないか 体を こわしては いないか
田んぼにぽつりと置き去られた案山子になぞらえ、兄は心配します
「こんな私なんかに、そんなに優しく声を掛けないで」と心が叫びます
大好きな木琴のアレンジが加わったあたりから、心の針が危険域へとふれていくのでした
懺悔(ざんげ)と戒(いまし)め
何度聴いても、このあたりが限界のようです(「お母ちゃん、ごめんなさい」と心で叫びたくなるのです)
最後まで聞き終えるほどには、私の涙腺(るいせん)は力強くはなかったみたいです
この曲は、両親への懺悔と自分への戒めの歌なのです(当時の自堕落な生活は、思い出すだけでも情けなくなります)
だから、この『案山子』
忘れられない歌ではなく、決して忘れてはいけない歌なのでした
寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る、
図らずも「さだまさし」さんは、しんみりとこの言葉を繰り返し、終えるのでした
「案山子がひとり」の言い方といい、春の風が吹き抜けるような、温もりに包まれます
さだまさし
昭和52年(1977年)の伝説
25歳でもうこの曲は出来ていました
「グレープ」解散後、病気を患いしばらく休養します
そして、満を持してソロデビュー、あの『雨やどり』(昭和52年3月)が大ヒットします(音楽的にもお笑い的にも歌謡史に残る傑作です)(オチも秀逸で、必ず最後までお聞きください)
そして『吸殻の風景』(昭和52年7月)(軽快な曲調がらも、ギターアレンジは素晴らしく、恋愛の応援歌として、優しく励ましてくれます)
と続き『案山子』(昭和52年11月)です
ソロデビュー第一弾『線香花火』(昭和51年11月)(”線香花火の火玉が落ちて ジュッ” 最後の歌詞は悲しすぎます、辛すぎます)
この作品を含めると、わずか1年でこの力作4曲です
それはまるで、綺麗なアーチを描くように、私の心に打ち込まれてしまいます
(バックスクリーン3連発(バース・掛布・岡田)のあとに、まさか佐野選手(当時6番打者)までも・・・みたいな世界です)
まさに、奇跡のの4連発を世に送り出したのです
その後も、若きスラッガー「さだまさし」さんは、幾つもの「伝説」を生み出します
P.S.
あれから
人生、反省も大切ですが、やはり「これから」のほうがもっと大切ではないでしょうか(「夏目漱石」さんも言っています「これから」が大事…いや「それから」でした)
まぁ、「あれから」の自分を少しでも磨き、親孝行に務めたいものです(そろそろお小遣いをもらうのをやめて、あげるほうにまわりたいと思っています)(日頃、「こづかいをもらってあげるのも親孝行」との持論を展開し、子供たち(妻を含む)に冷たい視線をあびているもので…)
「冬来たりなば 春遠からじ」(つらい時期を耐え抜けば、必ずいい時期が来るの意)
イギリスの詩人「シェリー」(誰?)さんは、なんと素晴らしいことをおっしゃるのでしょうか
私の春もきっと、すぐそこまで来ているかもしれません(ん?、話がすり替わっている?)(つらい時期を耐えたのはわが両親、重ね重ね、申し訳ありません)
季節も「春遠からじ」、久しぶりに故郷に帰ってみては?
了
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