カルメン・マキ 『時には母のない子のように』 半世紀すぎた現在も本物の音は鳴り続けていました

17歳とは思えない妖艶な雰囲気、歌唱力、哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ

(ウィキペディア)より

 

【1969年(昭和44年)】

『時には母のない子のように』でデビューした頃の映像を、薄らぼんやりと覚えていますが、17歳だったことを今初めて知り、驚きよりも感動が先に訪れます

 

「カルメン・マキ」さんは、友人に誘われて行った舞台寺山修司さん主宰の劇団)に感銘し、即入団を決意されたのでした(当然、高校も中退)

若き日の決断、昭和の偉人たちの共通したこの行動力が、その後の人生を切り開きます

 

アポロ11号が人類初の月面着陸に興奮し、巨人の5年連続日本シリーズ制覇(V5)に歓喜していたあの頃です(ちなみに、この年から、国松に代わって末次がレギュラーに加わり、V9の完成型が出来上がりました)(なぜか、スター性の薄い彼が好きでした)

 

私といえば、17歳の何も知らない少女がすべてを投げ出し、歌にその人生をかけていた同じころ、「車周作」指導のもとの「一条直也」の「地獄車」にくぎ付けとなり、呑気に「吉沢京子」さんに恋心を芽生えさせていたのでした「柔道一直線」より)(星一徹のような車先生は、とても厳しく、眉毛も濃く怖かったです)

 

同じ時系列に存在した、昭和の名曲『時には母のない子のように』

 

今振り返りと、ぬるま湯一直線だった私の17才と比べて、「カルメンマキ」さんの歌う姿は、恐ろしいほどの奥行きと開きがあったことに気づかされます

 

「気づかされる」も何も、「巨人」といえば、大鵬・卵焼きと続き、「柔道一直線」といえば「近藤正臣」さんのピアノ演奏を思い出されるように、私などと比べられるべき方ではないことは、当然といえば当然なのでした

 

『時には母のない子のように』 1969年(昭和44年)

 

作詞者と作曲者

 

作詞:寺山修司 作曲:田中未知 編曲:山屋清

 

時には 母のない子のように

だまって 海を見つめていたい

 

「田中未知」さんの作曲者としての知名度が、あまりにも低い気がするのは何故なのでしょう(少なくとも私は、初めて耳にする名前でした)

 

誰しも普通に疑問に感じてしまうほどに、この旋律に魅了されます

「作詞者の寺山修司さんを長年公私にわたって支えた」というエピソードと関係するとは思えませんが、創作者としての溢(あふ)れる才能を感じてやみません

 

だけど 心は すぐかわる

この部分だけは、ぐっとリズムが落ち着き、「語感に残る余韻味わいなさい」と言われてようでもあるのです

 

母のない子になったなら

誰にも愛を 話せない

 

日本の歌人・劇作家でも有名な「寺山修司」さんという方もよく存じ上げません

しかしながら、私などには到底理解しえない「彼の世界感」を、見事にこの旋律で表しているように感じてしまうから、不思議です

 

”誰にも愛を    話せない”

 

何とも言えない、この最後の「一拍の間」

この曲を聴くたびのに、この瞬間を待ちわびている自分に気付くのでした

 

失礼を承知で言わせていただければ、「田中未知」さんはこの曲調、そして作品で「寺山修司の世界」を陰で支え続けていたのかもしれません

 

カルメン・マキと編曲(山屋清)

湘南の海で録音されたという、哀しく打ち寄せる波の音で幕は明けます

そして楽器に詳しくない私は、ハーモニカのような音色(多分違います)に聞こえるのですが、この主旋律を奏(かな)でる音がたまりません

まさに琴線に触れる音なのです

 

全体的にアレンジはシンプルで、使われている楽器も数少ない構成のようです

そこにこの曲の魅力があるのではと思えてなりません

 

そこに加え、「カルメン・マキ」さんの飾らないファッションイメージと、自然とにじみでる底抜けな歌唱力でもって、一段と輝きを増していきます

 

この年、紅白に出場した映像(白黒)は、国宝級です

落ち着いた低い声、愁いを帯びた視線、オリジナルには見せない微妙な間の取り方、これはもう完璧なる芸術性豊かな舞台なのでした

 

また、アレンジの素晴らしさも外せません《伊東ゆかりさん(たぶん)が曲紹介(司会?)していたのは驚きでした》

 

この頃から続いた紅白歌合戦の十年間は、V9時代の巨人と同じく、みんな大好きだったのです

(但し、今やさみしくも名前の消えた「大洋」「アトムズ」(セリーグ) 「阪急」「近鉄」「ロッテ」「東映」「西鉄」「南海」(パリーグ) のファンの方々は除きます)(1969年当時)

 

この曲には、同じオリジナルカラオケで、「イタリア語バージョン」がありました

日本語さえ覚束(おぼつか)ない私にも、なんとなく憂いが伝わってくるのは、旋律の秀逸さを物語っているのかもしれません

 

野球の話が続いて恐縮ですが、70年代の当時巨人ファンだった私でしたが、「マルカーノ」(阪急)という選手が何故か好きでした

紳士的振る舞い・ミスのない堅実なプレーがとても印象的でした(日本シリーズでちらっと見ただけですが…)

 

彼はイタリア出身ではありませんが、この「イタリア語バージョン」は、「マルカーノ」の華麗なグラブさばきやしなやかなスローイングそのものなのだったのです(自分でもよく意味が分かりません)

 

今も活動し続けている彼女たちは、輝かしい昭和を背負ったヒーロー&ヒロインに違いありません

 

「Char」さんのオフィシャルサイトに素敵な映像がアップされていたのでご紹介させていただきます

 

「Char」さんが、芸能界から追放処分を受け、「四面楚歌」状態にあったとき、救いの手を差し伸べたのが「カルメン・マキ」さんでした(ウィキペディアより)

 

彼女の素敵な人柄を想いながら、この映像を見ていると改めて感動がわきよせてきました

 

『気絶するほど悩ましい』? 気になったかどうかは、自分の胸にそっと閉じ込めておこうと思います。

 

P.S.

 

「不適切な表現」と「お弁当」

 

久しぶりにオリジナルのオントロを聴いたとき、懐かしくも哀愁に満ちたこの響きに、「タイガーマスク」のエンディング曲を、ふと思い起こさせてくれるのでした

題名は『みな〇ごのバラード』です

 

『時には母のない子のように』の歌詞の内容も、「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったようです

 

いろんな意見があるでしょうが、「向田邦子」さんがエッセイ【お弁当】でこんな風に言っておられました

 

小学生時代(戦前)にある男の子は、ときどきお弁当の時間に、”忘れた” ”おなかが痛い” と言って教室の外に行きます(お弁当を作ってもらえないほどに貧しかったのかもしれません)

 

そんな時、まわりの子も先生も見て見ぬふりです

先生が自分の弁当を分け合って食べていた、という美談かと思っていたら違っていたのです(私は、少し冷たいなぁと感じながら読んでいました)

 

向田さんは当時を振り返り、

やはり正しかったような気がする。人に恵まれて肩身の狭い思いをするなら、私だって運動場でボールを蹴っていたほうがいい。

と言っておられます

 

その後のくだりで、先生のお弁当をちらりとのぞいたことがあり、思ってた以上に貧相なおかずだったらしいのです

そういうおかずを持ってくる子供のことを考えて、あえてつつましいお弁当だったのではないかと向田さんは推測します

 

人を思いやる方法として、優しい言葉は大切です

しかし、ぱっと見冷たそうな行動や言動が、当人にとってはありがたい場合もあるのかもしれません

 

不適切な言葉をなくせば、差別はなくなっていくのであればいいのですが、現実にはなかなか難しい問題のようです

 

苦労して育ったわけでもない私には正解などは分かりません

せめて、あの先生の何気ない行動に気づける人間になってみたい、少しでも近づいてみたいと思うばかりです(無関心は最大の罪といいます)(最近YouTubeで、NPO活動の動画がお気に入りです)

 

「行動しない優しさ」や「不適切な表現」を使わないだけで終わりにしない

そんなことを「お弁当」『時には母のない子のように』で教わった気がいたします。

 

 

 

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