『新宿の女』(1969年)『女のブルース』(1970年)『圭子の夢は夜ひらく』(1970年)
デビューから空前(これまでに例がない)絶後(これからも同じ例はない)のヒット曲三連発です(サンシャイン池崎さんや、巨人の槇原さんが懐かしく思い出されます)
「阿部純子」(藤圭子)さんは貧しい家庭を支えるため、高校進学を断念し上京し、母親と一緒に流しの仕事をしながらメジャーデビューを夢見ます
当初は飲み屋周りの仕事が「少し恥ずかしかった」と懐古されていました
まだ15~6歳だったことを考えると当然でしょう・・・(って16で流し!信じられません)
18歳で『新宿の女』でデビューしたころは、営業のため25時間キャンペーンなど、眠る間も惜しんで働いていたようです(今なら、ブラック企業どころか逮捕されるレベルかも)(何でもありの時代です)
「少し眠くてつらかったけど、頑張らないと・・・」と淡々と語っていました(あなたの「少し」って!)
そんな苦労を知る由もない、当時8歳の少年は『圭子の夢は…』で初めて彼女を意識します
それは、アイドルとしてなのか、異性とし始めて何かを感じたものがあったのか・・・
そんな少年には、少しばかりこの歌詞は衝撃が強すぎたのかもしれません
十五、十六、十七と 私の人生 暗かった
今でもこの手の歌が好きなのは、「藤圭子」さんのこの時の面影がずっと心に残り続けているからなのかもしれません
さらに衝撃はこれでもかと押し寄せます
次作『命預けます』
任侠路線かと思わせるインパクトある題名です
命 預けます
嘘もつきます 生きるため 酒も飲みます 生きるため
19歳の少女は、お人形のような顔立ちでドスも歌も、痺(しび)れるほどにきかせてくれます(今なら一発アウト、退場です)(いい時代でした)
この凄(すさ)まじい歌詞を少年たちは「アイドル歌謡」でも聞くかのように、もう当たり前に受け入れていました
こんな時代に生まれた幸運、彼女のような人に出逢えた感動、とめどなくあふれる切れ切れなる記憶・・・
かくして、だらだらと続くこの「前置き」、終りへの糸口が一向に見えてきません
思い返せば(まだ続くようです)昭和45年(1970年)といば、まだ「南沙織」「天地真理」「小柳ルミ子」(敬称略)さんたちアイドル歌手の登場前です(私の中では「小柳ルミ子」さんは、アイドルというにはちょっと違うかなって感じですが)
「アイドル」なる言葉の夜明け、「黎明期」(れいめいき)だったのかもしれません
それまでは、文部省唱歌やベテラン歌手の演歌をちょこっと耳にするぐらいの私でした
「ウルトラシリーズ」「仮面ライダー」「巨人の星」など傑作が、少年たちへと怒涛のように押し寄せてきていました(姉の影響で「サリーちゃんやアッコちゃんもよく見ていました)(キカイダーやバロムワンなど名前を聞くだけで涙が…)
そんな中、目の前に現れた「藤圭子」さんは、動き始めた昭和の象徴であり、歌謡曲というものに初めて触れさせてくれた人なのです
「歌謡曲」の入門書とも言える彼女の作品は、50年の時を経ても私の中で輝き続けているのです
そんな彼女が、恩師でもあり、作詞作曲の先生でもある、デビュー以来の総合プロデューサー「石坂まさを」先生の歌詞から離れ、第二ステージへとチャレンジした曲こそ・・・
大変長らくお待たせしました(司会の玉置ひろしです)(違います)
面影平野 昭和52年(1977年)
作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童 編曲:馬飼野俊一
ピンクレディー旋風が吹き荒れる中、宇崎/阿木コンビは前年からの「山口百恵」さんへの楽曲提供で勢いづき、「藤圭子」さんのところにまで届いてきました
作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、編曲:馬飼野俊一、歌:藤圭子
もう一度書きましたが、この方たちです
聞く前から「名曲」約束されています
伸び盛りの若き力のぶつかり合い、見ごたえある競演です
阿木燿子 / 宇崎竜童
前年の名作『想い出ぼろぼろ』(内藤やす子さんも、この歌も大好きです)を凌ぐほどの内容だと感じました
喧嘩別れした「あの人」を思い出します
狭い部屋の中にもかかわらず、あの人の面影は平野のごとくに広がるばかりなのでした
女一人の 住まいにしては 私の部屋には色がない
女性にしては殺風景な様子を「色がない」と表現されます(第一コーナーから「阿木ワールド」全開で攻めてきます)
この曲に限っては、「宇崎竜童」さんの座席位置は助手席、ナビゲーターだと思います(申し訳ありませんが、勝手にそう設定させていただきまいた)
出足の旋律は、きっちりと歌詞の内容を指し示します(素晴らしい誘導(ナビゲーション)です)
薄いグレーの 絨毯の上 赤いお酒を こぼしてみよか
ワインと言わずに「赤いお酒」です(クランクも難なく駆け抜けます)(もう、意味が分かりません)
「色のない」モノクロの世界に「赤」が冴(さ)えわたります
波紋のように 足許(あしもと)に 涙のあとが 広がって
これでもかというように低音を響かせて、まるで奈落の底さえ覗(うかが)えそうです(リズムは宇崎ナビの真骨頂で奏でます)
今どきのふかふか絨毯を想像してはいけません
安っぽい、うっすいペラペラのヤツです(涙もすぐに広がるでしょう)
酔えないよ 酔えないよ 六畳一間の 面影 平野
ご本人は、ポリープ手術(1974年)による声のイメージが変わったことに悩んでいたといわれていますが、「酔えないよう~」の艶(つや)を伴う声の伸びがとても好きです
2番の歌詞は圧巻です(ギアチェンジも鮮やかに、エンジン全開の走りを見せてくれます)
私一人が 眠るにしては 大きなベットは 邪魔なだけ
6畳一間に大きなベット
過去と現在の状況を端的に現し、哀しいセリフがポツリとこぼれます
縁(ふち)に腰かけ 背中を丸め 過ぎた月日を ひも解(と)いている
『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』の詩をみて「これは俺が作るべき作品だった」と、あの「阿久悠」をうならせた「阿木燿子」さんです
「縁に腰かけ・・・」から始まるこの歌詞は、まさに阿久悠さんでなくてもうなります(うなるという表現は少しおこがましく、ただひたすら平伏するばかりです)
足の踏み場も ないほどに 悲しみばかり 散らかって
危ないよ 危ないよ・・・
部屋中に漂う「悲しみ」の多さに、生きることの苦しさに危険な香りを感じたのでしょうか
先ほど、2番の歌詞は圧巻と表現しましたが、凡人の私にはつかみ切れないもどかしさが残ります
「阿木燿子」さん32歳での力作、26歳の「藤圭子」さんは作詞者の意図、女の情念を確実に自分に取り込み、彼女にしかできない目力で訴え続けます
虫の音さえも 身に染みる 思い出ばかり 群がって
切ないよ 切ないよ 六畳一間の 面影 平野
小排気量のメカニカルな「ハチロク」が、「藤原拓海」の操作テクニックで大パワー「ランエボ」を軽く追い越すシーンが浮かびます(何が何だか意味不明です)(「頭文字D」をご存じない方は無視してください)
歌詞の奥深いセンスと稀代の歌唱表現により、悲壮感を超越し清々(すがすが)しさしか残りません
そして、「藤圭子」さんには二度と会うことのできないこの現実
大いなる喪失感が私の部屋に漂ってくるのでした。
切ないよ 切ないよ 六畳一間(藤圭子)の 面影平野
P.S.
藤圭子
藤圭子さんの歌はやはり、CDで聴くよりステージでの映像で聴くのがベストだと思います
ビジュアル的な面もありますが、その実力はデビューから手術後、再デビューしてからも衰えることはありません
わたしの中では、神のさえずりと確信しています
画力がない
文章力がない事をどう言葉でいい表すのでしょうか
今回「藤圭子」さんについて思いのたけを説明したかったのですが、われながら画力?のなさに、今更ながら愕然(がくぜん)とします
本物の凄さが伝えきれないもどかしかしか残りません
誰もが認めている歌のうまさ
私はずっと今まで、引退前の「森昌子」さんが頭二つぬけていると信じて疑いませんでした
「うまさ」だけなら、他にもたくさんの実力者がおられます
しかしこの人「藤圭子」さんには
低音・高音・かすれ・微妙な巻き舌・浪曲風の語り・目の独特な動き・・・・
そのすべてに誰もが真似できない、唯一無二の「うまさ」があるのです
まだ幼さが残るあるインタビュー動画より
歌を歌いたいとはそんなに思ったことはないよ、お父さんお母さんが歌ってて、自然に歌うようになっただけ・・・
自分からああしよう、こうしようと思ったことない・・・自然と向こうからやってくる
《いまはあなたスターだからくるの》
スターじゃないけど・・・
「阿部純子」(本名)として言った場合は歌は好きだけど・・・
《歌手「藤圭子」としては》
いいもの作っていこうと思うし・・・
《歌手やるの?》
当分やんなきゃ、しょうがない・・・自分のことばっかりじゃなくてさぁ、周りに人達の期待に応えなくちゃいけないし・・・
時々やっぱり、いやな時あるんだぁ
歌なんかさ、疲れちゃうし面倒くさい時あんの!
とても饒舌で素直に可愛く答えられていました
作られた部分と、彼女の本来の性格、堂々とした振舞いと人見知りな面
そんなすべてを織り交ぜての「藤圭子」という不世出の歌手
あなたが歌う歌、すべては永遠に不滅なのです
でも結局は・・・
前を見るよな 柄じゃない うしろ向くよな 柄じゃない
よそ見してたら 泣きを見た 夢は夜ひらく
私はこの歌を歌っている時の「藤圭子」さんが一番好きなのかもしれない。
了
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宇崎竜童(ダウンタウンブギウギバンド) 知らず知らずのうちに 昭和48年(1973年)
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