テレサ・テン
鄧麗君(とうれいくん)《デン・リージュン》 台湾出身です
言わずと知れた「アジアの歌姫」
数あるヒット曲の中から、無名の「夜のフェリーボート」です 昭和51年
作詞:山上路夫 作曲:井上忠夫
作曲は「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」の「井上大輔」(本名・井上忠夫)さんです
『学園天国』『ランナウェイ』など数多くのヒット曲を放っています(『水中花』は超おススメ曲です)(ヒットはしていませんが・・・)
一つの恋に終わりをつげ、夜のフェリーで旅立ちます
忘れた笑顔を とり戻せるまで
『夜のフェリーボート』(数多い楽曲のなかで、かなり好きな曲です)
彼女の名前を世間に知らしめた」『空港』の海の港版でしょうか(身を引く女性を語らせるなら、彼女しかいません)
久しぶりに見た映像では、1番はデビュー間もない頃の(23歳)、2番は32歳(昭和60年)
彼女は、全力で訴えていました
さよならあなた 愛していました
このさびの部分、何度聴いても、天才的歌姫です(彼女以外の姫は、考えられません)
哀愁を帯びた声、声量、高音の伸び、儚(はかな)げな表情、もう何も言うことはありません
日本へ来た当初から、抜群の歌唱力でした
その実力に、さらに磨きをかけ、頂点へと邁進(まいしん)します
そんな彼女の全盛期ともいえる昭和60年年前後(神がかり的結果を出します)(つぐない(1984)・愛人(1985)時の流れに身をまかせ(1986))(まさに、バックスクリーン3連発です)
少し調べると、この映像は、昭和60年NHKホールでの伝説のコンサートでした(伝説は私が勝手につけました)(彼女のコンサートの中でも、最高峰に位置付けられるものと、確信しています)
さよなら あなた 愛していました
同じことを、もう一度書いてしまいました
さよなら!「テレサ・テン」さん
愛していました!「あなたの数々の歌、あなたの人柄、あなたの思い」それらすべてを・・・
アジアの歌姫は、私の中の「歌姫」でもあったのです
ジェルソミーナの歩いた道 昭和61年
作詞:門谷憲二 作曲:丹波応樹 編曲:羽田健太郎
1985年のコンサート映像を見ていたら、この曲と出会いました(急きょ、追記となりました)
かすかな記憶が、呼び戻されます
編曲の羽田さんのピアノ(たぶん)が、哀しみの心を癒(いや)してくれ、情景をも想像させてくれるのです
映画「道」の主人公「ジェルソミーナ」
彼女もまた、悲しい運命をたどるのでしょうか(映画と言えば「伊豆の踊子」しか見たことがない私は、題さえ聞いたことがありません)
ジェルソミーナの歩きつづけた 涙とほほ笑みの道
私も今歩き始める 両手を広げて
「ジェルソミーナの歩いた道」がどんなものだったかは分かりませんが、テレサの魅了的な眉間のシワが、哀しみの深さを物語ります
『夜のフェリーボート』『ジェルソミーナの歩いた道』
どちらも、それ程のヒットには至りませんでしたが、また違った「テレサ・テン」に出逢えるかもしれません
そして「アジアの歌姫」は、私の心の中で、いつまでも両手を広げて 歩きつづけているのです。
P.S.
台湾と中華民国と中華人民共和国(中国)
中国については、パンダがいるぐらいで、よくわかりません
ましてや、台湾
国なの?中国の一部なの?
”ウキペディア”で少し調べた、素人の解説を、よろしければ
もともと、元・中国成立前は、中華民国
戦後(昭和24年)、中国共産党が「中華人民共和国」(一般的には中国)を樹立
内戦の末、敗れた国民党(蒋介石)が、台湾島(敗戦前までは日本が統治)に逃げて「中華民国」(おもに台湾省を実行支配)
一般的に、地域名である「台湾」と表記されます
日本と中国の国交正常化(昭和47年・田中角栄)により、台湾との国交断絶(中国の意向が大きく影響)(民間の交流は今でもとても盛んです)(この時パンダが初来日です、のちの「カンカン」「ランラン」です)
「テレサ・テン」さんも、そんな政治的影響を受けながら、再度来日し、たくさんの「宝物」を残してくれました
昭和60年コンサート会場にも、多くの香港人・台湾人の方々が訪れており、彼らのリクエストを快く受けつけ、即興のアカペラで歌っていました
少し間違えたり、つまったりしながらの返歌(5曲)に、彼女の人柄が出ており、感動せずにはいられませんでした。
ありがとう「テレサ・テン」
謝謝(シェイシェイ)「鄧麗君(とうれいくん)」
私は忘れられない。
了
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