アルバム「七夕夜想曲」の中に『22才の別れ』はライブバージョンで収められています
完成度があまりにも高く、今でもライブ音源だとは信じられません
以前『ゆうこ』という曲を取り上げさせていただきましたが、彼への溢(あふ)れる想いをおさめ切れず、異例の第2弾です
踊り子 1983年(昭和58年)
最大のヒット作『初恋』に続き発売されました
この詩の世界感は、「村下孝蔵」さんにしか描けません(「フォーリーブス」さんの『踊り子』も、改めて聴いてみましたが、かなりの名曲でした)(『急げ!若者』の次に好きになりました)
作詞・作曲:村下孝蔵/編曲:水谷竜緒/コーラスアレンジ:町支寛二
イントロの約25秒は、至福の時間であり、身も心も耳も「パブロフの犬」となるでしょう
答えを出さずに いつまでも 暮らせない
バス通り 裏の路地 行き止まりの恋 だから
知らない裏通りをむやみやたらに走り続け、最後は行き止まりに立ち往生します
そんな危なっかしい運転を、若い二人の恋にたとえます
つまさきで 立ったまま 君を愛してきた
年齢や経験にかかわらず、恋の始まりはどこかしら無理をしたり背伸びをしてしまうもの
しかし若い二人は、ストレートに気持ちをぶつけあってしまいます
写真を ばらまいたように 心が 乱れる
1番の終りの歌詞です
この直前の2行の意味するところが私には難しく、人生経験の浅さ・恋愛経験の乏(とぼ)しさが悔やまれます
そして感動の2番の始まりです
表紙のとれてる 愛だから かくしあい
ボロボロの 台詞(セリフ)だけ 語り合う 日々が続き
多くの方がご指摘されるであろう「表紙のとれてる愛」という比喩(ひゆ)です
この歌の「メイン・キーワード」であり、村下孝蔵さんの「生命線」であるとともに、歌謡史に残る「名ゼリフ」だと思うのです
坂道を駆ける 子供達 のようだった
倒れそう なまま二人 走ってい・た・ね
この文節の切り方が、何気に好きです
何となく情景が想像され、「若いって素晴らしい」というありふれた、そして年寄じみた感想が漏(も)れてしまいます(「じみた」どころか年寄のど真ん中にいるのですが…)
狭い舞台の上で ふらつく 踊り子
中略
若すぎた それだけが すべての 答えだと
涙を こらえたまま つまさき立ちの 恋
【二人の激しくも、純粋な恋】
【トーシューズをはいた少女は、少しぎこちないけれど、可憐(かれん)に、そして真剣に踊り続けます】
二つの情景が、見事にオーバーラップするのでした
村下孝蔵
このほかにも彼は、たくさんの「ドラマ」を世に送り出してくれました
そして、あの素晴らしい「舞台」も、もうナマで見ることが出来ません
彼は「脚本」「演出」「音響」そして「主演」を見事に務めた、偉大なる「総監督」なのではないでしょうか
濃紺またはグレーのスーツに黒っぽいの無地のネクタイ
彼は「昭和歌謡史に輝くパフォーマンス」を、気負わず・普通に・普段通りに演じます(今はやりの「ドヤ顔」は微塵も見当たりません)
それは同じ1980年代に世界を制した《現代テニス界の父》「ビョルン・ボルグ」の姿そのものです(ちょっと唐突ですが)
感情をむき出しにプレーする、若きやんちゃな「ジョン・マッケンロー」を、重いトップスピンで冷静沈着に対応している姿を思い出します(彼は超絶技を、いとも簡単そうにこなします)(たとえが、分かりにくくてすみませんでした)
「村下孝蔵」さんは、世界に誇れる人物であり、同じ日本人として尊敬の念しかございません
そんな彼を少しでも知っていただければ幸いです
故郷・熊本県水俣市の商店街に、『初恋』の歌碑が建立され、商店街ストリートの名称もこれにちなみ「初恋通り」と改名されたと聞いています(ウィキペディアより)
この「初恋通り」、この先訪れることがあるならば「つまさき立ち」で歩いてみてください
まるでトーシューズをはいた少女(踊り子)のように・・・
「初恋」を思い出しながら・・・
「表紙のとれてる愛」を想像しながら・・・
そして「村下孝蔵」さんを偲(しの)びながら・・・
P.S.
比喩(ひゆ)法
この『踊り子』にもたくさんの比喩が使われていました
比喩には、大きく分けて三つあるようです
【直喩】(ちょくゆ)
例:「まるで〇〇のような△△だ」みたいに直接的に表現します
【隠喩】(いんゆ)(メタファーとも言う)
比喩だと、はっきり示さずたとえる方法です
例:「行き止まりの恋」「表紙のとれている愛」
名曲です
【擬人法】(ぎじんほう)
人間以外の対象物を人間の性質にたとえて表現する方法です
例:「街が泣いている」
伊丹哲也&Side By Side 街が泣いてた 昭和55年
隠れた名曲です
比喩と似た発音の語に「揶揄」(やゆ)があります(皮肉を言ってからかうという意)
このブログも揶揄されなきように、頑張っていきたいと思います。
了
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