作詞:西條八十 作曲:万城目正
時代は昭和30年発売されます
作詞作曲の先生方のお名前のも威厳があります(大正の香りさえも致します)
西條八十(さいじょうやそ)
詩人で、仏文学者でもあります(かなりのイケメンです)
『青い山脈』『王将』や「人間の証明」テーマ曲など作詞されています
万城目正(まんじょうめただし)
「愛染かつら」の主題歌・『リンゴの唄』・『悲しき口笛』など
若き「島倉千代子」さんの歌唱指導をされ、「君は歌がヘタだねぇ」と言っています(詩が持つ表現力を彼女に求めたのです)
それ以降彼女は、「詩のドラマを歌い込む」ことを生涯のテーマにしたと言われています ”「秘蔵映像!島倉千代子」より”
この世の花 昭和30年(1955年)
赤く咲く花 青い花 この世に咲く花 数々あれど
デビュー曲にして200万枚売れたという、有名な歌い出しです(昭和52年に再度カバーされているので、何となく知っています)
当時、まだ16歳だといいます(今のうちの娘と同じ年です)(ケータイをいじる時間がどっちが短いか競っています)(お互い6時間が切れません)
昭和36年までに50万枚以上売れた曲が13作品(内100万越え6曲)(こうなると「鳳仙花」80万枚、割と少ないかも、みたいなバブル感覚となってしまいます)
当然、二十歳になるころには、一等地(たぶん)に一戸建てを購入されます(港区高輪、この名前を聞いただけで、一等地ぽいので)
30を過ぎたころの「島倉千代子」さんしか知らない私は、「売れに売れた大スター」みたいなイメージはありません(zozo・前澤氏のような、札束ひらひらさせて「なんでもいったれ」感を、微塵も感じなかったのです)(あくまでも個人的なイメージです)
か細いようで芯のある上品な歌い手さんが、首を少し傾け、歌っていたのです(印象的な声を携えて)
唯一無二のこの声は、時代を遥(はる)か超えて、令和になろうと消してはならない宝物です(心の中のクラウドに保存してください)
想う人には 嫁(とつ)がれず 想わぬ人の 言うまま気まま
17~18歳でお嫁に行く女性も多かったこの時代(たぶん)です
戦後の復興がやっと動き始めたこの頃、若い彼女たちに選択肢はあまりなかったのかもしれません
悲しさこらえ 笑顔を見せて
まさに、島倉さんの人生そのものでもあるかもしれません
君のみ胸に 黒髪を うずめたたのしい 思い出月夜
「笑顔を見せて」のところの声が、文字通り「悲しさこらえ」て笑っているのです
「たのしい」のこの言葉を発しただけで、楽しそうに思い出している風景が見えてくるのです
私には、そう聞えました
万人を惹(ひ)きつけてやまない理由が、この表現力にある気がします
「詩のドラマを歌い込む」ことを生涯のテーマにした彼女
デビュー間もない時点で、ほぼ到達していたのかもしれません
「秘蔵映像!島倉千代子」のなかで、インタビューを受けている場面がありました
「今まで恋愛の経験は?」
記者の不躾(ぶしつけ)な質問に、21歳の彼女は
「ないんです」
少しはにかんだように答えています(眼の中は、どこまでも透き通っていたように見えました)
この映像は、彼女の人柄、苦労、生き方がよく現されており、素晴らしいものでした
若輩の私が、思わず「お千代さん」と親愛を込めて呼びたくなるのでした。
P.S.
東京だヨおっ母さん
何故か、紅白では歌われていません(昭和32年から36回連続出場)(きっと深い事情があるのでしょう)
久しぶりに 手を引いて 親子で歩ける うれしさに
ここでも彼女は嬉しそうに、当時を思い出したみたいに、歌っています(実生活では一度も叶うことはなかったといいます)
「ちあきなおみ」の『喝采』ではないですが、歌手ってなんて辛く、残酷な仕事でしょうか
別のインタビュー(高橋圭三さん)できかれていました
「古賀政男さん」作曲の『りんどう峠』(昭和31年)について、「この曲でどこが一番難しいですか?」
「やっぱり最後の、ハイノ ハイノ ハイ」です
「レコードはひどいんですけど」
「今頃になってやっと古賀先生の指導された歌い方が出来るようになりました」
今頃とは、23年後のことです
その後、生歌で歌われ、圧巻の歌唱力を披露されるのです
どこまでも謙虚であり、努力の人なのでした
この映像を見ていると、どうしても「島倉千代子」さんのDVDが欲しくなりました
アマゾンのサイトで、ポチっと指が動くのを止められません
たまに、衝動買いして嫁に叱られますが、今回は許してくれそうな気もします
近くに暮らす、認知症の母が島倉さんの大ファンだったのですから・・・
DVDが届いたら、母と一緒に見ながら、こう言おうと思います
「お千代さんがテレビで歌っているよ、昔と同じように・・・」
了
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