石狩挽歌 昭和50年
作詞:なかにし礼 作曲:浜圭介 編曲:馬飼野俊一
トランペットのイントロは、強烈です(80年代の代表が「珍島物語」なら70年代の王者と言えるでしょう)
堅実とでもいえるドラムの音は、まるで和太鼓のように心に響きます
なかにし礼の挽歌
雪に埋もれた 番屋の隅で わたしゃ 夜通し 飯を炊く
このフレーズを歌う時の「北原ミレイ」さんが、カッコいいやら、投げやりっぽいやらで、好きすぎます
ニシン漁は衰退の一途(いっと)をたどります
歌詩の中では、休む間もない厳しい生活の記憶と、そして時代の移り変わりへの哀愁とが交互に訪れます
あれからニシンは どこへ行ったやら オタモイ岬の ニシン御殿も
「挽歌」という言葉は、いつ頃から使われ始めたのでしょうか
挽歌=エレジー(悲しみを歌った詩・歌)というストレートな意味もあるでしょうが、この女性は、さびれた小樽の港町を嘆いているだけではない気がします
挽歌=人の死を悲しみ悼(いた)む歌(こんな意味もあります)
彼女の人生を「挽歌」になぞらえ、失われた青春を悼んでいるのかもしれません
オンボロロ
漁に使っていた網は、浜辺に投げ捨てられ、富の象徴であったニシン御殿も朽ち果てる寸前です
オンボロロ オンボロボロロ-
ボロボロな状態になったのは、ニシン漁だけではありません
若い頃から、厳しい環境(厳寒の北国・忙しいだけの毎日)で、身も心も捧げてきました
彼女の心もボロボロに傷ついていたのかもしれません
最後に「なかにし礼」さんは、こんな歌詞で締めています
わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る
P.S.
記念碑
小樽 貴賓館(旧青山別邸・国登録有形文化財)内の庭園に「なかにし礼」直筆の歌詞と「浜圭介」「北原ミレイ」の名前が、記念碑に刻まれています ”ウキペディアより”
巨万の富を得、贅(ぜい)を尽くして建てられた「ニシン御殿」です(6年半の歳月をかけ、総工費30億円・現在換算)
寝る間も惜しんで働いていた漁師の方々は、どんな思いで眺めていたのでしょう
昭和を訪ねて
昭和の曲をいろいろ聴いていると、当時の暮らしを懐かしんだり、羨ましくもあったりします
そんな憧(あこが)れの風景も、貧しさと背中合わせなのかもしれません
現在の暮らしになれ、不満ばかりの私は、ふと思います
少し世知辛い時代になってきましたが、いいところも沢山ある「令和」なのです
「石狩挽歌」の「栄華と挽歌」にふれ、「今の生活」がとても恵まれていることを再認識します
あたり前の生活が、決して当たり前でなかったことを、改めて教えてくれました。
P.S.2
文字量が物足りないので、どうでもいい雑学を一つ
赤ニシン
英語の「レッド・へリング」の直訳で「赤ニシン」(そんな魚はいません)
暇を持て余していた学生の頃、赤川次郎さん?か阿刀田高?さんの小説で知りました(40年ぐらい前なので、違うかもしれません)
「ミステリー作品などで、無実の人物に疑いがかかるように、小ネタをちりばめミスリードしていく手法のことを「赤ニシン」と表現する」みたいな解説だったと思います(話半分でお願いします)
「赤ニシン」で検索してみると、「燻製(くんせい)ニシンの虚偽」というのが、慣用的な表現みたいです(こちらはウキペディア先生なので大丈夫でしょう)(使い方も大体あっていました)
「魚の生臭さを、濃い塩水を使い身が赤くなり、燻製にすることで形や匂いを誤魔化す」みたいな、そんな話から生まれたのかもしれません(これまた、後半は怪しい情報です)
いいことも沢山ある令和だと先ほどは言いました
しかし、悪い人も沢山いますので、詐欺等には十分気を付けてください
あなたの行先には、いたるところに「赤ニシン」が待ち構えているかもしれません。
了
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山崎ハコ 『織江の唄』 呪いを込めて藁人形に釘を刺すような女性ではありませんでした
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